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平成18年度早稲田大学福島県支部定時総会(白河大会)
日時:平成18年7月2日(日)/ホテルサンルート白河
大学・校友会よりの出席者:総長 白井克彦氏
校友会事務局長 口元周策氏
地域コーディネータ 根本 進氏
総長秘書 山口晋一氏
エクステンション講演会 :映画監督 篠田正浩氏(早稲田大学特命教授)
篠田正浩監督エクステンション講演会
「私は、こうして映画に出会った」という講演をしてくれたわけですが、篠田監督はこんなお話でした。
※国体で全国レベルというものを知った私は、大学へ入学したその足で、競走部部へ入部手続きにいったんです。
競走部のコーチが、「篠田、400メートルの世界記録は何秒だ」、 「46秒フラットです。」
「君の記録は、何秒だ?」 「53秒8であります。」
「とっても、世界記録には届かないネ、お前の400mの記録で、5000mを走れば世界記録だ、
今日から世界記録を目指せ、早稲田の競走部に来て、世界記録を目指さないとは何事だ・・」
私は、コーチのその言い分が気に入りましたね。・・・・・・
秋からは、箱根駅伝の練習がありました。10人の正選手と4人の補欠選手がエントリーされる ん ですね。その練習コースといえば、戸塚のロータリーを左折して、そのまま大久保通りをまっすぐ走りますと、それはもう一望焼け野原です。
イロドリは、左手にある女子学習院からでてくる、若いキコさんたちです。可愛い女学生を横目に見ながら、こっちはイイトコロ見せようと思って、スピードを上げて、走り抜けると、 もう新宿の丸井のマークが見えてきて、そこから新宿3丁目を左折して、そのまま新宿通りを四谷まで、抜けて行く。
四谷に行くと、「上智大学には最近、女子学生があらわれたぞ」と、いうので、キョロキョロしながら、カッコつけて走ると、いよいよ半蔵門に突き当たります。もう丸の内ですから。早稲田のワッペンつけてダラシナイことできないですネ。
桜田門へ走っていきますネ、井伊大老はここで討たれたんだなぁ、 と思って、走ってゆくと、今度は共立女子大の横を通るんですね、
で、神田へでて、お茶の水女子大の横通って、そのまま大塚・池袋を通って、日本女子大の横抜けて、帰って来る。
中村監督は、僕らが、大学をでたら、サボるに違いないから、ポイントポイントに全部、女子大を通るようにしたんですネ。・・・・・・・・
わたしは、その箱根駅伝のタイムトライアルで、14人中14位だったんですね。あ、これは補欠で、俺は、遊びに行くつもりで、箱根の合宿所へ連れて行かれて、いい気持ちで参加していましたね、こっちは、ラビットボーイ、ペースメーカーですから。
トレーニングは、10人の正選手よりも、4人の補欠が、早く走り出し、箱根の坂道を一気にのぼっていくんですね。下りで、私たちは、くたばって、その間に、正選手が私たちを追い抜いて、私たちは、そのあとはゆっくり帰ってくればいいんですね。そういうトレーニングが始まりました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そんな練習を何回かしていましたネ。
ところが、いくら待っても、後続が来ないんですね、あれ、俺が強くなったのかな、そんな日が訪れたりしたんですね、
いよいよ試合の前日になりまして、中村コーチは、私に、「2区へ行け、」先輩のアテンドで行けって言ったんですね、先輩と一緒に中継所に宿を取って、「先輩、マッサージしますから、横になってください」って言ったんですね。
先輩の足をどれほどサロメチールで、マッサージしたことかわかりませんネ、
この技術で、私は結婚40年支えてきたんですから☆☆☆
「いや~、篠田、お前横になれ、」
「明日、走るのは、お前なんだよ、」
「そんなバカな、誰が決めたんですか?」
「中村に決まってるんだろ!!」
「中村さん、狂ってるんじゃないですか」
「はじめから、狂ってるよ、アノ人は、」
私は、先輩に揉まれてもぜんぜん気持ちよくなかったですね
なかなか映画の話になりませんね
私は、第二集団でタスキを受けたんですね、先輩が悲痛な声で、「篠田、頼むッッッって、」
私は、そのタスキを受けた瞬間、400mランナーの選手の血が騒いだんですね一気にスパートしましてね、それで、やっと自分のペースに戻って、あの20キロの、山の手の半周ペースの練習コースが思い出されて、
そのころ、ランニングコーチとして、選手にペースを教えたり、いろいろ助言することが、今は禁止されてますけど、あのころは許されていたんですね。
中村コーチは、まるで、戦時中のナチスドイツの、あのサイドカーね、あれに乗って、
ザァーッと私のところへ寄ってきて、
「篠田、驚いたろ!!!お前」
「どうして、僕、二区走るんですか?」
「走り終わったら、教えてやるわ~」
「篠田、練習よりラップが遅れている、ピッチを上げろ」コーチの言葉は、神よりおもいですからね、
「篠田、立教抜け・・・」 でも、前途洋々でしたよ、自分の順位を維持して、一人抜いたから、いいやと思っていたら、
前に法政大学のHの文字がが見えてきましたね、
「練習タイムより落ちてる、俺を舐めるきか、篠田、法政を抜き給え・・・・」 「はい」そうしたら、今度は、前方、彼方から、陸の大者、慶応・・・の校歌が、
「篠田、どこの校歌だ」
「慶応義塾大学であります」
「君の大学はどこだ」
「早稲田大学であります」
「慶応の後ろを走ってていいのか・・・・あれが、ピークでゴールだと思ってスパート掛けろ、
「後は俺に任せろ!!」 「任せろって言ったって・・・・」
その年2位でゴールしたんです。試合が終わって、中村さん捕まえて、
「コーチどうして、私が2区だったんですか?」と聞いたら、
「全体の平均をとれば、早稲田は8位か9位、このマンネリズムを打破するのは、 暴走する奴がいないとダメだ、」
この年新人が3人起用されたんですね。新人は自分の可能性について未知である。監督も未知である。でも、すでに知られている、ベテランの選手に較べて、この新人の未知にすごい可能性がある。これは、極めて合理的な判断だと、そのとき思ったんですね、中村コーチはすごいひとだと思いましたね。
自分が映画監督として、一本一本つくるとき、絶対、自分が新人と同じような、恐怖心、未知への好奇心をもたないで、少しでも、マンネリカしているような仕事は、一切やるまいと思ったんですね。
私は、34本映画をつくりましたけれど、なかでも、「瀬戸内少年野球団」という映画では、全部、少年は、みたこともない新人を起用しました。新人がベテランを追い越す可能性を、いつも考えるべきだと。わたしの生涯の教訓になりました。これは、わたしが箱根駅伝を走った、教訓でした。
わたしにとって、衝撃的だったのは、まだ、翻訳できていない、原書のキンゼイレポートだったんですね。そのキンゼイレポートの理論は、私が街をランニングしながら、すれ違う、アメリカのシボレー・フォードのなかの、男女のコックピットの中の光景と重なったんですね。だから、僕は、瀬古みたいに、世界選手になれなかったんですね。
ランニングをしながら、私は、シボレーを運転している男の、隣に座ってる女が煙草をふかすのをみたんですネ、彼女が、煙草を捕らえてる指のマニュキアの赤と、私は、ルージュの赤がおんなじ色だと気付いたんですね、これは、1秒の何分の1という時間ですね、今日、私がしているネクタイ、あとで、説明できますかね、皆さん!!静止しているものは、説明しがたいですネ、一瞬でも動くものは鮮明に見えるんですね、
私にとって、戦後、早稲田でなにを学んだか、それは、いままでの日本の芸能が、伝統の美しさとか、華やかさとか、言ってますけど、「伝統のうしろに何が潜んでいるのか、」ということにたどり着くまで、わたしは、今日までかかりました。
私の映画には、この世に受け入れられない、
人々に差別された賎民が、登場します。
そして、私の主人公たちは、すべて、時代の中で、反抗したり、自分の存在を失った敗北者たちです。一番最後は、「スパイ・ゾルゲ」の尾崎秀実です。
われわれの歴史というものは、いわば、何かの信条をもってしたとき、かならず、それを裏切る、新しい時代精神が、波が打ち寄せるようにして、それを消してゆく。
この無常観というもの、それがわたしとっての、映画化でした。この無常観の一番の源を、わたしは、早稲田で発見し、それを映し出すことによって、人々と我々が、どんな時代を共有できるかという、
知的な認識と、それにたいする、我々の精神をもちあげる、精神を鼓舞する力、
それをわたしは、走ることで、学びんだのです。